板屋ゼミ
研究テーマ:映像現象の場所論的考察、および映像の撮影装置とスクリーンの研究。
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場としての建築へ
古代ローマ建築についての著作の冒頭には、それを歴史として一直線に組み立てられないことの理由が眼に付く。たとえば、《変転激しく、しばしば癇にさわるほど捕らえどころのない歴史的表現の一表現》(ウォード・パーキンズ)、《様式的な配列や区分が存在しないのは明らかであり、それは古代ローマ建築が芸術と無縁の現象であるからである》(H・フォン・ハインツェ)、といった具合に……。芸術と無縁かどうか別として、実は、このような端書きそのものが、古代ローマ建築の特性を一番うまく言い表しているのである。年代的に矛盾するような作例が繰り返し現れるのは、スッラからハドリアヌス帝までの200年位の期間の建築家たちが、自由に形式化の段階を選択していることに起因している。ここでいう形式化とは、人間が自然に負うことなく、もうひとつの世界としての建築を制作すべく、確立しようとするシステムを指している。この形式化は三つの段階に大別できる。それが、1400年代から1600年代にかけて、区別と一定の流れがあるかの如く組み立てられたのが、ルネサンス、マニエリスム、バロック、である。ルネサンスと名付けられた形式化の段階は、建築の輪郭の直接制御可能なシステム(配列図式=グリッド、要素=オーダー、要素間の関係=修辞法)の確立期である。このシステムは禁止事項を多分に示唆し、その禁欲性と単純性ゆえに、はじめから、その修辞的な側面には操作が介入する余地があり、それが顕在化したのが、マニエリスムである。しかし、システムの限界は操作だけでは回避できるはずもなく、そこで、自然の輪郭としての無限に向かって突き抜けていこうとする意志が度々現われるようになる。それがバロックである。古代ローマ建築においては、―この形式化の三つの段階が、ランダムに、時には同時に、現れる―という特性を、ひとつの定義としてもよいだろう。もし、古代ローマ建築が歴史として組み立てられるとしたら、それは形式化の三つの段階の、ランダムな関数的依属関係、でしか示し得ないであろう。何故古代ローマ建築に興味があるかと聞かれれば、私は即座に、それが歴史でないから、と答えるようにしている。

著わされている古代ローマ建築のもうひとつの問題点として、古代ローマ建築が、その時期に支配的であった枠組みからではなく、わたしたちの「空間」という枠組みから見られ、書かれもしている状況を指摘しておこう。当時の一般的な教養にまでなっていたストア派やエピクロス派の自然学においては、わたしたちの「空間」の観念からみると、その「空間」と「もの」とを混同しているかのような実体を枠組みとしている。それは数、正確にいえばベクトルという数、で規定され得るような実体である。そこで本著では「空間」、及びその観念からなる「構成」と言う言葉を、いかに使わずに建築の解説が可能か、を試みている。ひとつの予感に支えられて……。古代ローマの建築家や哲学者が、この世界の根本法則の具体的な形を探求するために、自然を心のうちに、そして科学的に観察したように、今日でも自然を見詰めているのは物理学者たちである。その人たちが1970年以降に到達している、自然界で最も根本的な原理は、20世紀初頭からの建築が公準として来た「空間」という観念の枠組みによるものではなく、世界を「場」という基本的な実体による枠組みで捉える理論である。ベクトルの関係項を均衡させることで、複合体の統合を実現してきた古代ローマ建築が、建築の未来形―場としての建築―を予感させること、それはこの枠組みにおいてである。
映像のスクリーンから〈支持体〉へ
2004年の5月、ひとつの事件のような発見に出会った。それは篠原規行先生(本学映像学科助教授)と一緒に進めている映像学科3年生の「自由形状スクリーン」という課題の指導中のことである。この課題の出題意図は、映像にとってのスクリーンを単に与えられたものとしてではなく、個々の映像のために積極的に造形する対象として扱うことにあった。各自のスクリーンを発見するために、布や木やガラス等に映像を投影している時に、ある学生の、水で湿らせた紙にインクがにじんでいく映像を水に投影することになった。篠原先生と私は、映像素材の中にある水によってインクが広がる現象を水に再び投影することは、一種の映像の敗北であり、あまりにも具体的すぎて表現にならないと思っていた。その結果、一番驚いたのは学生達ではなく、われわれの方であった。透明の水には像が映らないので、透明アクリルの容器に2cmの厚さの牛乳ゼリーを作り、その上に透明の水を2cm程入れた状態に投影した。透明の水の中でインクの染みがひろがる驚きは、映像体験というよりも、ものの世界の体験であった。そして更なる驚きは、インクのにじみが乳白のゼリーの厚み方向に進行していったことである。この状況はスクリーン上の映像が表面から厚みをもったものへ移行することである。もの化した映像の体験は、現実感よりも物質感が先行していた。

この発見を契機に、われわれはもうひとつのスクリーンの役割として、映像の中の現象を現実世界の現象に戻すこと、そして映像をもの化することを標語にしている。また、そのようなスクリーンを従来のスクリーンと差別するために〈支持体〉と呼ぶようになった。映像はスクリーンに密着しているわけではないので、正確な意味としては〈支持体〉という呼称はふさわしくない。しかしながら、ある映像にしか適合しない固有のスクリーンの可能性と、それが映像をもの化する期待を込めて、敢えて〈支持体〉と呼んでいる。〈支持体〉の追求は牛乳ゼリー・スクリーンからはじまって、綿棒スクリーン、黒スクリーン、シルクとハーフミラーのスクリーンと次々に展開されてきている。このような〈支持体〉をともなった映像が、今後建築や都市の中で新しい関係として位置付けられる予感がある。さながら実験室のような様相を呈してきた篠原先生と私の個人研究室はぶち抜きで一室となっており、そこに出入りする学生達と一緒になって進めている、映像の現象を扱う新領域「イメージフェノメナン(※)」の着地点は、たぶんそこに、建築や都市の中にあるだろう。 by 板屋 緑
※イメージフェノメナン:ものが存在する現実世界の映像素材を、風景に見立てること、解体すること、変質させること、スケール変換すること、次元をかえること、時間を与えること、奪うことなどの操作によって生まれる現象を展開させることで作品につなげる試みである。
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